■時をかける少女_d大林宣彦_s剣持亘(潤色大林宣彦)_撮影坂本善尚

製作:1983年
出演:原田知世(芳山和子)、高柳良一(深町一男:深町くん)、尾美としのり(堀川吾郎:ゴロちゃん)、岸辺一徳(福嶋年男)、根岸季衣(立花尚子)、


◇往年の名作の誉れ高い本作。ひどく残念なことに、私は初見でした。
同時代の角川映画の盛り上がりを横目に見ながら、そう、当時は、テレビとか、映画とか、みせてもらえなかったんだもん。


◇さて、感想は、・・・・正直言うと、微妙。
この映画が、第一義的にアイドル映画だというのは、原田知世のプロモーション映像のようなエンディングからしても明かで、まずは、「原田知世に萌えるかどうか」という点で、価値判断の分岐がおきるのでしょう。


正直、今の私の目から見て、この映画の原田知世は、純粋さは確かに魅力だけど、その純粋さを覆い隠さんばかりの舌足らずの大根役者としか言いようがない。だけど、きっと、当時の映画界、テレビ界、社会環境、風俗を背景にしたときに、輝かんばかりの光りをはなって居たんじゃないかしら。


いわば時代のノリとともに輝きを帯び、ヒトビトの記憶に強烈に定着した、時代そのものの映画。返す返すも、リアルタイムで見ることが出来なかったことが悔やまれる。


##追記##
・・・・と、一度、見て書いたんだけど、二度見たらまた違った感興が涌いてきた。エンディングのあの有名な「時をかける少女」の主題歌とともに流れる映像は、いわば、私にとって「時をかけて」いた。
映画本編を見ずとも音楽によって想起される当時のわたしの感情。原田知世、やっぱり歌、下手くそだなーと思いつつ、思いがけなく涙が沸き上がってきたのです。
そして、その音楽に演技ではなく、役者としての笑顔を見せる劇中人物達が被さる。(正確には劇中人物のキャラクターを放棄してはいるけれども、原田知世プロモーション映像の中でのやはり「演技」なんだけどね。・・いや、それでも!本編演技とは違う「緊張感を漂わせた面持ち」が効いてくる。)今は24年の年月を重ねている彼ら、彼女ら。このエンディングは、思いがけなく、1983年という時代のドキュメンタリーでもあったのですよ。
##追記終わり##



◇だけど、見どころは多い。ひたすら学校生活における「原田知世萌え」を追求する前半1/4は、うっかり眠りそうになるのだけど、タイムリープによる、日常の繰り返しが起き、尾道の古い石畳の道、階段、土塀の町並み、破れた路地裏、廃屋らしき建物がある見晴らしのいい高台、うっかりすると俺は中国の山奥の映画を見ているのか(「山の郵便配達」とか)と錯覚するほどの舗装されない細道に親和性を持った住宅群が、クローズアップされてくる前半の後半あたりから、画面の吸引力が上昇してきます。


それが最高潮になるのが、終盤の事態の真相を知り、芳山さんが意識して「時をかけ」ようとするところ。尾道の風景のストップモーションで長時間繋いでいくのですが、凝りに凝った映像設計で、ここは素晴らしかった。見ていて心地よいリズムがあり、この辺りがこの作品の真の価値じゃないでしょうか。


◇また、芳山さんを崖から突き落とす深町くんを演出するあたりに、ちょっとどうかなーっ?と思う特撮合成の挿入が一瞬あるものの、随所に挿入される「時をかける」芳山さんの全身コラージュも上手くアニメーションと融合しています。
情景のストップモーションと、被さるアニメーションで、過去の出来事を遡及していくシークエンスに、詩的なノスタルジーを補強しているカンジかしら。
あと、忘れてはならじ、執拗に同じリリカルなメロディーを繰り返して、ノスタルジーを盛り上げていく松任谷正隆の音楽が最強。


◇さて、しかしだ。この作品の(役者に次ぐ)弱点は、SF的な状況を、無理矢理シンプルに説明しようとするセリフと脚本にある。
あまりにも不用意に、無邪気に、SFとして状況を語ろうとしていて、折角の素晴らしい「映像の語り口」を台無しにしているんじゃないかなーっと思いました。
「入り口を低くし、映像を高く」という戦略なのかもしれないのだけれどもさ。非常にもったいないカンジがしたよ。


◆◆以下メモ◆◆
◆◆以下、重要なネタばれあり◆◆
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・ゴロちゃん役の尾美としのりさんの演技が上手い。


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・理科準備室で倒れているのを発見された芳山さん(原田知世)。頬を煤だらけにしていて、それをゴロちゃん(尾美としのり)のハンカチで拭いた。洗って返す芳山さん。
「ごろちゃん、ありがと。これ洗っておいた。・・・・ごろちゃん、ホントにありがと。そのハンカチ・・・お醤油のにおいがいっぱいしたわ」
・よ、芳山さんっ・・・・それは、誉め言葉なのだろーか。
・直後のゴロちゃんのお母さんとの対話で「オヤジの代から醤油のにおいがしみついてるんだから」なんて、ゴロちゃんは拗ねてますよ。
・しかし、古い木造の建屋の二階に上がり、古い建物には珍しいステキなベランダ風の屋上で、密かにハンカチの匂いをかいで、醤油の盥洗いを始めたりするので、実はまんざらでもなかったみたいなのでした。


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・前半、若干眠いなと思ってみていたら、原田知世の白ブルマーで目が覚めた。ダメだおれ・・・・。
・この作品の特徴として、学校内のシークエンスが退屈な気がした。品行方正な学園妄想全開すぎる?
校外のシークエンスは、情景が魅力的で、弛緩しがちな物語を締めてくれているんだな、きっと。


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・夜中の地震と火事のあと、帰宅する芳山さん。途中の石畳の階段を上るシークエンス。光りを虹色に滲ませて、深夜、海の底を歩むような路地裏へ迷い込むところがヨカッタ。
・全般に、ライトアップの演出による、夜の尾道の街の魅力が素晴らしくいい。


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・朝の風景。学校へ向かう道すがら、深町くん(高柳良一)の家の前をとおりすぎるとき、芳山さん、呟く。
「おはよ。植物大博士。お元気ですか」


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・体育の女先生にネクタイを贈られる岸辺一徳の先生。ネクタイを直してあげたり、このふたりの隠微な関係が、清純そのものの物語の、実は隠し味。


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・木造家屋の屋根裏部屋の深町くんの部屋が素晴らしい。木の感触だけでなく、木の枠だけで窓ガラスがないの!


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・「ももくり三年・・・」の歌は、叙情のキーなのだけど、私には理解できないセンス。折角のノスタルジーが、若干減速している気が・・・


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・「私・・・わからないわ。この気持ちは一体何?・・・胸が苦しいわ。・・・わからないわ。これは?・・・愛なの?これは?・・愛するってこと?」
「だって、もう、時間がないわ。・・・どうして時間は過ぎていくの?」


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・約10年後(1994年4月16日)のエピローグが、実はこの作品の物語的なキモ。婚期を逃しそうな芳山さん・・・・「お化粧っけもまるっきりないんですから。」(母親)
・大学薬学部の研究室でカンペキにオールドミスの道を・・・しかも、怨念のにじみ出る日本人形カットで、男を寄せ付けないヤバイオーラが出ていましたよ。


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・ところで、ラストは深町くんと芳山さんの再会の予感、ハッピィエンドなんだろうか。
・一瞬出会い頭にぶつかり、謝ったあと、深町くんは自分の用事をさがしに廊下を遠ざかっていく。(どういうレンズを使っているのか不勉強ながらわからないのですが)レンズの焦点を遠ざかっていく深町くんから、手前に移すに連れて、(レンズの効果で)急速に遠ざかっていくその後ろ姿。そして、芳山さんは、それに背をむけ、反対の方角の、未来の孤独を象徴するような暗い廊下を、しっかりとした足取りで闊歩していく。


私が、この映像設計から得た感触では、一瞬すれちがうものの、二度と永遠に出会わない軌道を描いて離れていく二人・・・・を演出しているとしか思えない。だとすれば、深町くんに出会ってしまったばかりに、人生を狂わされた可哀想な女性とゆー、素晴らしい結末。・・なんだろうか。
宣伝メッセージ「恋の予感はジョブナイル」なんだから、ジョブナイルらしく誰もがハッピィエンドを望むのだろうけれども、まあ、今の薄汚れてすり切れた私には、こういう解釈しかできないんですね。スミマセン。


この結末は、実は開巻すぐのクレジットと呼応していると思う。
「ひとが、現実よりも、/理想の愛を知った時、/それは、ひとにとって、/幸福なのだろうか?/不幸なのだろうか?」
実は、不幸でした・・・というのが、私の内的必然から導き出されるこの物語の結末デシタ。