■輪るピングドラム24愛してるs幾原邦彦伊神貴世c幾原邦彦山崎みつえ中村章子古川知宏d幾原邦彦山崎みつえ中村章子g西井輝実進藤優中村章子

◇最終回。


◆(今にして思えば)作中、第一話から何度も振られていながら、まったく思い至らなかったが、この物語は「銀河鉄道の夜」をインスピレーションの源のひとつにしていると思った。(きっと、既にいろんな人が語っていることでしょうが・・・・)


◇第一話で、高倉家の家の外を歩く少年達に語らせ、この最終話でも再度、語られる対話が直球。
「だからさ、リンゴは宇宙そのものなんだよ。手のひらに載る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ。(・・・)(あっちの世界とは)カンパネルラや他の乗客が向かっている世界だよ。」(少年A)
#上記の部分は第一話のみ。最終話は以下のみ。#
「つまり、リンゴは愛による死を選択したものへのご褒美でもあるんだよ。」(少年A=子供カンバ)
「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」(少年B=子供ショウマ)
「おしまいじゃないよ。むしろそこから始まる・・って、賢治は言いたいんだ。」(少年A=子供カンバ)


◆これ以外にも、蠍の火、苹果(リンゴ)という文字使い、そもそもの幻想の鉄道(地下鉄だけど・・)など、薄々なんか記憶にひっかかるものがあるなーと思っていて、十数年ぶりに「銀河鉄道の夜」を再読してみました。


◆そうしたら、モチーフだけではなく、どうもこの物語のテーマそのものもかなり直球に「銀河鉄道の夜」に近いと思ってしまった。


◇たとえば、「銀河鉄道の夜」における一挿話。イタチに追われて井戸に落ちて溺れた蠍(さそり)の懐述とされるもの。((原典はそういうものらしいが)参考にした本では平仮名が多く読みにくかったので一部漢字に変換。句読点も勝手に追加した。)
「ああ、私は、今まで幾つのものの命をとったかわからない。そしてその私が今度、いたちにとられようとした時は、あんなに一生懸命逃げた。それでもとうとうこんなになってしまった。(・・・)どうして私は私の体をいたちに呉れてやらなかったろう。そしたら、いたちも一日生き延びたろうに。どうか神様。私の心をご覧ください。こんなにむなしく命を捨てずどうかこの次にはまことのみんなの幸いの為に私の体をお使いください。」


◇あるいは、「幻想第四次元の銀河鉄道」車中で出会った「鳥を捕る男」の様子を見た主人公ジョバンニの懐述。
「ジョパンニは、なんだか訳もわからずに俄に隣の鳥捕りが気の毒で堪らなくなりました。鷺をつっかまえてせいせいしたと喜んだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見て慌てて誉めだしたり、そんなことをいちいち考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでも何でもやってしまいたい、もうこの人の本当の幸いになるなら自分があの光る天の川の河原に立って、百年つづけて立って、鳥を捕ってやってもいいというような気がして、どうしても黙っていられなくなりました。」


◆全般に私の中に残っていた宮沢賢治のイメージは、「生物に宿命づけられた食物連鎖の輪への罪悪感とそこから出発する関係性」、「過剰な自己の撤退(≒自己犠牲)による他人の幸福の祈念」だったりしたので、概ね「銀河鉄道の夜」という童話から摘出した上記二つはイメージに合うでしょうか。(ていうか、宮沢賢治については本当に今回読んだのが十数年ぶりなので、違っていたらゴメン。)


◆さて、この回でサネトシとカンバが語る「生存戦略」はこうだ。
「真に純粋な生物な世界では利己的なルールが支配している。そこに人の善悪は関与できない。・・・つまり、(純粋な生物の世界のルールに従うならば)もう何者もこの運命(=「<箱>に比定された人間存在」を破壊すること)を、止められないのさ。」(サネトシ)


◇(私の思いこみ上の)賢治さん的に言えば、人間は生物の食物連鎖的な運命の輪からは逃げられない。生物である以上、理性を持つ人間であっても利己的な理由による殺し合いは必然だ。(ヒマリの命がどうやって助かるかは「物語世界の主宰者」のひとりであるサネトシにかかっている。「人間という<箱>」を壊すことを望むサネトシに従うことでヒマリは助かる。のであれば、利己的にふるまうまでだ。)


◆だけれども・・・・・・というのが、この物語最大のテーマ。だけれども、人間には、どんな自己消滅の危機に瀕しても、他人を思いやることが出来るこころがあるじゃないか。


◇再び「銀河鉄道の夜」から引けば、大洋で氷河に当たって遭難した旅客船で我先にと人々が逃げ出す中、連れの子供達だけでも助けたいと願う家庭教師の青年。しかし、そのためには、脱出ボートに既に乗っているたくさんの子供達を放り投げ、また彼らを切実に助けたいと願い遭難船に居残っている父母の思いを踏みにじらなければならない。


◇だから、この青年には「どうして見てるとそれが出来ない。」。そして、「そんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方達の幸福だとも思いました。」


◇ちなみに、「つまり、リンゴは愛による死を選択したものへのご褒美でもあるんだよ。」という劇中のセリフは、遭難後、銀河鉄道に乗車したこの青年と子供達に渡されたリンゴのことだと思われます。


◆この物語で言えば、「人間」という「象徴の箱」に「体を折り曲げて入った」カンバとショウマが、「自分がどんな形をしていたのか、何が好きだったのか、誰をすきだったのか。」を忘れそうになった極限の状況(作中では具象的な箱型の牢獄が描かれていますが、あれは人間存在の象徴的な描写だろーと思う。)で、カンバが二つに割ってショウマに与えたリンゴこそが、理性を持つ人間としてのもうひとつの「生存戦略」の象徴なんじゃあないだろうか。


◇そのことを思い出して、カンバは、「サネトシの生存戦略」の列車から別の運命の列車に乗り換える。


◆しかしその前に、カンバとショウマにはもうひとつの「生存の課題」があった。義理の妹であるヒマリを女性として独占したいという煩悩。また、ヒマリの視線も危うい。
「ね。生きるってことは罰なんだね?・・・私、高倉家で暮らしている間、ずっと小さな罰ばかり受けていたよ。」(ヒマリ)
「そうか・・・僕らは始まりから全て罰だったんだ。」(ショウマ)


◇しかし、輝かしい幼い日々の日常。楽しかった共同生活。義理とはいえ、みな兄妹だった。そのことをカンバを体から情念の血流を流しながら悟り、ショウマは、カンバから分け与えられたリンゴという象徴から思い出す。そして、自己消滅を悟りながら、「リンゴを分け合う」ことを選ぶ。


◇私が思うに、この結末は、激烈な異性愛を昇華させて、隣人愛、肉親愛に着地したのだと思う。宗教的な悟りを開いたといってもいい。「過剰な自己の撤退(≒自己犠牲)による他人の幸福の祈念」こそが、人間存在における究極の美しさなのだと語っているんじゃあないかなあ。。。。


◇「銀河鉄道の夜」における、こころやさしい蠍はさそり座になった。
「そしたら蠍は自分の体が真っ赤なうつくしい火になって燃えて夜の闇を照らしているのを見たって。いまでも燃えているってお父さんが仰ったわ。本当にあの火それだわ。」


◆さて、話そのものは、愛の力によって病気の妹を救うという、童話のようなシンプルな道徳物語だけれども、モザイクのようなシナリオのシリーズ構成、アクロバテックな語り口、画面構成、つまり演出の手練手管が壮絶に素晴らしかった。傑出してすごいと思いました。


◇また、具象的な物語を右左に揺さぶった末に破壊し、最終的には抽象的な物語構造を抽象のまま提示して、しかも一般的に面白いという稀なる着地点。素晴らしい。



◆◆以下メモ◆◆
◇「運命の列車」を乗り換えてしまったため、サネトシの指向する、「もうひとつの可能性の世界」が描かれなかったが、人間という<箱>から出るってことは、「幼年期の終わり」〜「生物都市」〜「ブラッドミュージック」〜「エヴァンゲリオン」の系譜のセンだろーか。
「君たちは決して呪いから出ることは出来ない。僕がそうであるように箱の中の君たちが何かを得ることなど無い。・・・この世界に何も残さず、ただ消えるんだ。塵ひとつ残せないのさ。・・・君たちは絶対に幸せなんかには成れない!」(サネトシ)


◇第一話で、高倉家の家の外を歩く少年達に語らせ、この最終話でも再度語られる。
「つまり、リンゴは愛による死を選択したものへのご褒美でもあるんだよ。」(子供カンバ)
「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」(子供ショウマ)
「おしまいじゃないよ。むしろそこから始まる・・って、賢治は言いたいんだ。」(子供カンバ)


「ねえ、僕たちどこへ行く?」(子供ショウマ)
「どこへ行きたい?」(子供カンバ)
「・・・・そうだな。じゃあ・・・」(子供ショウマ)