■墓場鬼太郎04寝子s高橋郁子d中村哲治g袴田裕二窪秀巳

◆原話「吸血鬼と猫娘」から、前回語られたトランプ重井(原作ではトランク永井)のエピソードの発端部分や、「ニセ鬼太郎」の鬼太郎へのルサンチマン、ニセ鬼太郎とねずみ男の奇妙な友情、ニセ鬼太郎が「地獄からの旅行者」を主張したことを発端としたTV局による学者との「地獄討論」などを省いて、ネコ娘を中心に話を組み立て直した一編。


◇毎度の如く、原話をキーワード的に残しつつ、話的にも構図的にもかなりアニメーションオリジナルなカンジに仕上がっています。


◇原作は、色々な物語要素が、「物語的結合力」が弱いまま並行して進み、貸本版墓場鬼太郎の原作群の中でも最も混沌としたエピソードなので、前回といい今回といい、なかなか良いまとめ方をしていると思いました。


◆さて、この回のキモは、「怪奇」ではなく「俗」。水木しげる先生の健康な世俗観が非常に原始的な形で現れてきています。
たとえば、Aパートの鬼太郎の女の子への下世話な執着。例えば、Bパートの寝子ちゃんの芸能界デビューという無邪気極まるプロット。


◇後者の芸能界的なもの、マスコミ的なものへの素朴な憧れは、原作においては軽薄なTV局員を登場させての「TV公開地獄討論」等に非常に顕著に現れています。(次回あたりで、「地獄討論」は語られるのだろーか?)


◆ところで、この無邪気な「明るい「俗」」が、全く唐突にするりと「死」に転化するのが、このエピソードの恐いところであり、最大のキモ。アニメ版の脚色は、この原作のポイントをきっちり押さえていてとってもヨカッタ。


◆実は、寝子ちゃんについては、恐らく次回、死後の世界での物語が語られるはずです。私は、原作では、この死後の世界での「寝子ちゃんというキャラクター」の語られ方の「得体の知れ無さ」には、無闇な不気味さを覚えました。これは恐い。


◇(原作では)あくまで軽薄なニセ鬼太郎が、この回で展開されたような「明るい俗」を饒舌にまき散らす脇で、「死せる寝子」ちゃんが不気味にうっそりと描かれるのです。


◇アニメのこの回は、かなり「俗」よりにチューニングされているけれども、結末まで見通した上でのノリは原作のこの後の展開と同じですね。


◆じゃあ、この「得たいの知れ無さ」は何かといえば、まず、「明るい俗」と「暗い死」の無邪気な同居による混沌。
そして、「寝子ちゃんというキャラクターの立った人物をあっさりと捨てる」描写に見られる「無邪気な酷薄さ」の2点なんじゃないかと思ったんですがどうでしょう。後者について言えば、実は、原作では、鬼太郎ですらその死にさして気にも留めず、するする話が流れていってしまいます。


◇私などは、ここに、現代的なキャラクター中心に組み立てられた物語には見られない、この物語の「原始性」つまり「神話性」の濃度の高さが表れていて、とっても素晴らしいと思うんだけど、穿ち過ぎかなあ?
原作のこの最大の「持ち味」を損なわずに、アニメーション化しているのが実に素晴らしいです。


◇さて、次回、死後の寝子ちゃんは、どー描かれるでしょーか。楽しみ。


◆◆以下メモ◆◆
======================
◆「TV局での地獄討論」が描かれていないので、「ニセ鬼太郎」が鬼太郎のちゃんちゃんこに執着してすり替えた理由や、寝子ちゃんを水死させた理由がかなり謎になっちゃっています。
◇寝子ちゃん殺害を企てたニセ鬼太郎が、スコップとバケツを持っている理由もたぶん、このアニメ見ているヒトには分からないんじゃないかなあ。
(原作では、ニセ鬼太郎は、地獄の実在を証明するために、鬼太郎の霊毛チャンチャンコを着て、寝子ちゃんの魂と共に、地獄の砂を取りに地獄へ行く必要があるのです。次回、ニセ鬼太郎の動機をどう処理するのかすごく楽しみ。)


======================
◆寝子ちゃんの実家、「ねこや」で、三味線を作っていたことは前回語られていたけれども、「猫の頭」を売っていることは省略されておりました。個人的には、ここにこそ、寝子ちゃんがネコ娘たる因果の象徴があると思っていたのでちょっと残念。


======================
◆「ねずみ男の頭を物理的に囓る」という、これまた昔話っぽい描写がちゃんと残っていてヨカッタ。


======================
◆寝子ちゃんの唄をもっと昔風のメロディにする思い切りはできなかったものか・・・