■電脳コイル19黒い訪問者s磯光雄松澤洋介c鶴岡耕次郎磯光雄d木村延景g本間晃押山清高秦綾子

◇1話遅れ
◆これは、怪談とSFの分水嶺かなあ。電脳世界の上の発生する「何か説明がつかない不合理なもの」を描く作品なのか、それとも合理的に説明をつける結末が用意してあるのか。


◆個人的には、SFとして全てが合理的に説明されることを期待しちゃう。その立場に立って考えてみると、このセカイは、演出通り「タマネギ構造の電脳世界」として説明されるんじゃないかと思ってみました。


◆登場要素は、<電脳体>と<肉体>と<心(認識主体)>。
この作品世界の電脳メガネをかけた子供達は、この3者が一体として分かちがたく結びついた世界に生きている。
当然ながら<心>は<肉体>に属していて、その<肉体>の周りに薄皮のように<電脳体>がマッピングされている。これがフツーの状況。


◇しかし、この回で演出されたキョウコの身に起きた現象は、本来<肉体>から決して剥離しないはずの<心(認識主体)>が、<肉体>から離れ、いわば「タマネギの外皮」である<電脳体>に付着して、どこかに飛んでいってしまった。


◆これまで、<電脳体>は、電脳メガネが無いと見えず、(人間にせよ無生物にせよ)作中の現実の世界の「物体」のうえに被せられた仮想的なものとされてきた。


◇仮想的な存在であるからには、どう転んでも実体である<肉体>の付属物である<心(認識主体)>を引きずって<肉体>を離脱することはできないでしょう。


◆すると、<電脳体>が<心(認識主体)>を引きずって<肉体>から離脱できるリクツは、ただひとつ。
(この作品における)<肉体>と<電脳体>は、同じ性質を持つ等価なものなんじゃなかろうか。
その性質は、ともに、「<心(認識主体)>が、宿ることが出来る。」


◆というわけで、ワタシの(当てにならない)予想によれば、物語られてきたこのセカイは、「<肉体>も<電脳体>であるセカイ」じゃないのかしら。
<電脳体>というタマネギの皮を剥がしてみると、その下から現れてくるのはやっぱり<電脳体>・・・・みたいな。


◇つまり、現実基層として語られて来た物語は、全て電脳空間での仮想的な小学生ライフだった・・・・というカンジはどうでしょーか。


◆雑な印象で予測を更に付け加えると、特に、「大黒市」以外の世界が登場してこないというところに注目かな。
ヤサコもイサコも、描写されない「外の世界」からやって来た。そして、「外の世界」の具体的な記憶は決して語られない。


また、「病院」「電脳メガネと治療」というものがクローズアップされてきたってのも怪しいかも。


◆だけど、この予想プロットだと夢も希望もないのが、ちょっとキビシイか。うん、やっぱり、ちょっと未来の、のほほんと楽しい小学生ライフが創作の中であってさえも仮想でした・・・・ってのはイヤだなあ。



◆◆以下メモ◆◆
・亡者がゆったりと襲って来て、逃げたり、立てこもったり、素晴らしい恐怖状況がいっぱいあるのに、ヤサコやフミエの恐慌感が少々足りない気がした。
亡者の動きがなかなかキモチ悪くていいカンジだったのにもったいない!