■天保異聞 妖奇士20不忍池子守歌s會川昇c錦織博d柳瀬雄之g堀川耕一田中誠輝妖夷g五十嵐喜一

◆武士をやめたモノ、武士になりたいもの、武士をやめようとするが思い直して武士であろうとするもの。この回は、この3者の対比を描くことを意図していたのかしら。


◇武士をやめたユキアツは、竜導家の当主としての決められた未来に疑問を感じ、15歳で垣間見た「魅惑の異界」=「もっと素晴らしい存在としての自分の可能性」に誘われるがままに出奔。しかし、彼の曖昧で現実味のない世界認識はすぐに破綻し、逆に「(有るべき)素晴らしい可能性」=「異界」に追い立てられて、怯えながら無為の25年を送ってしまった。
このあたりは、これまで重点的に語られてきたこのシリーズのメインの主題であるので、この回は、ここ数回に比べて、非常にまとまりがあって、よかったんじゃないでしょうか。


◇一方、「武士になりたいもの」は、土方歳三という農民出身のキャラクターをプロットしただけに終わった印象。子供土方は、この回のドラマの中心にいるようにも見えたけれども、武士を切望するのが、「美しいモノ」に憧れるという何だか地に足のつかない建前的な理由なので、どうにも座りがわるい。
農民出身としては、当時強固な身分制的な理由、たとえば、農民がどうしようもなくイヤだとか、大手を振って颯爽と歩いている武士が羨ましいとか、そういう本音的な攻め方が(個人的には)良かったんだけど。


ただし、「武士道という美しき幻想に酔っている」という底の浅さは、自覚的に演出されていたようにも思うので、これは好みの問題ですね。すみません。


◇さて、この回で、真に力を入れて描いてほしかったのが、「武士をやめようとするが思い直して武士であろうとするもの。」つまり、ユキアツ失踪後の竜導家の養子として迎えられて、ふとした気の迷いから「自分探し」の魔が差して失踪した男の物語。
これが、決定的に描写不足で、非常に消化不良を感じてしまいました。


「養子のユキアツ」は、養子としての自分が、肩書きがない自分自身で勝負できる存在なんだろうかと、突如懐疑に囚われ出奔するが、自分の悩みが取るに足らないことと思い直して、竜導家に戻るのだけれども、このあたりの「気の迷い」を上手く描写できていたらよかったんですけれどもね。
彼の迷いが「軽々しい」のは悪くないのだけれども、デテールが薄すぎた感じがしちゃった。まあ、30分×2回で語るのは難しいとは思います。私、激しく贅沢いってます。


◆ところで、ユキアツは、25年ぶりに「放蕩息子の帰還」ばりに、(父ではないが)実母の前に姿を現す。しかし、彼は、母親の懇願にも家督を継ぐことを拒否する。
一方で、養子のユキアツは、自分の存在を象徴し構成する<家督>という属性を、運命と受け入れて、竜導家に戻る。


同じ出奔した二人だけれども、<主人公ユキアツ>は、自分の可能性を求めて(結局は挫折するのだけれども)家を出た。
<養子のユキアツ>は、「自分の存在の絶えられない軽さ」の重みに絶えられなくなって現実逃避に走る。
その動機自体も対照的で面白いモチーフなのだけれども、養子のユキアツが上手く描けていなくて、ちょっと不発かもと思いました。


◇また、ユキアツは、この物語のスタート当初の根無し草で虚無を抱える都市遊民のままであれば、実母の懇願に、きっと飛びつかんばかりにあっさりと従ったんだろうなと思った。
そこを、母親と過ごした15年よりも、一人で生きた25年の方が長いとキッパリ断る処などは、「自分が何者であるか」を獲得しつつあるということなのでしょうか。


<39歳の成長の物語>或いは<自暴自棄の39歳の再生の物語>というこのシリーズの(この時間帯にして)あり得ない挑戦に、わたしなどは惜しみなく拍手を送るのだけれども、惜しむらくは、心境の描写があっさりしすぎなんですよね。もっと、こう、ネットリと、ドロドロ描いてくれると、嬉しいです(あー、世間的なニーズはないかも。)


◆◆以下メモ◆◆
・しかし、妖怪モードのユキアツを見せられた、ユキアツの母は、気が狂っちゃうんじゃないでしょーか。泰然自若としているのが、母の力?


・ユキアツ自身が妖夷に変化するというのは、物語的にどういう始末をつけるのだろーか。神様にでもなっちゃったりして。


・母が与えてくれた名前が、ユキアツの身を守るってのは、狙いすぎ。